はるたまの水溜まり日記

ただ、今ここに在るということ

「日本のゴーギャン 田中一村伝」 南日本新聞社

画家田中一村の壮絶な人生を、新聞社が集めた証言で構成した本。著者名はない。原題は「アダンの画帖 田中一村伝」。

 

田中一村は若くして才能を発揮し天才と言われた。美術大学に入学し順風満帆な船出になるはずであったが、結核を患いたった3ヶ月で退学する。この時、美術大学の同期には東山魁夷などそうそうたるメンバーがいて、その後の一村の人生に大きく影響する。

 

美術大学を中退した一村は、展覧会に入選するも、翌年に自信作が通らず重鎮とけんかするなどして、入選を辞退する。他の展覧会に出品するが入選しなかった。

また、一村は若くして両親と3人の弟を病気で失い、長男として、祖母と姉と妹の生活の面倒も見なくてはならなかった。彫刻の才能を生かし、また、農業を学んで生計を立てた。

 

一村には何人かの支援者がいたが、注文を受けて絵を描くという事はしたがらなかった。あくまで本物の絵を描く事にこだわった。

一村は絵のために鳥を飼うなど本物の絵を描くべく精進したが、画壇からは認められなかった。

 

50才の時、千葉の家を引き払って姉の喜美子とも別れて単身一村は奄美大島に渡る。当初の計画では、南の島を転々とした後、北海道に渡り、最後に東京で個展を開くはずだったが、実際には奄美に骨を埋めることになった。

 

支援者の一人が、一村に結婚を勧めたことがあった。かなり年下の女性を紹介し、千葉での仕事も紹介してくれた。奄美での生活は容易ではなく、相手のことも気に入ったため一村は結婚して身を固めそうになったが、姉喜美子の事を気にして取りやめた。それは、喜美子が27歳の時に、一村は自分が絵の道を究めるために喜美子の縁談を断り、そのために喜美子は生涯独身を通したという経緯があったためであった。一村は、自分は絵の道を究めるべきだと考えて縁談を断り、再び奄美へ戻る。

 

極貧生活の中で、染め物工として5年間働き、貯めたお金で3年間絵に没頭した。代表作は60才前後で描かれた物で、このとき、一村は目も見えにくくなっており、健康を保つために毎朝歩行訓練と称して2時間の散歩をし、庭で作っている野菜を塩もみしたものを豆腐と一緒に食べるなどの健康に気を遣った生活を送っている。家族を病気で失い、自身も結核にかかったためであった。

 

田中一村の代表作は60歳前後に描かれている。この頃の一村は鬼気迫る物があり、近所でもかなりの変人と思われていたようであった。「飢駆我」と称して、飢餓感こそが創作に駆り立てると考えていた。その後健康状態が悪化した。年金を貰えるようになっても生活は楽にならず、日本の高度成長のインフレのために、せっかく貯めたお金の価値が下がり、個展が開けなくなった。そして、姉喜美子が亡くなった。一方、旧友に絵をいくつか引き取って貰ってお金に換えることで再び絵を描けるようになった。こうして、69歳で亡くなるまで、絵を描き続けた。